---みんなが一つの家族のようだった---
何年か前から、私の半世紀を綴っていますが
中々出版の場を得られませんので
ここでトキワ荘の章だけを連載する事にしました。
私しか知らないことも色々あります。
しばらくお付き合いください。
私がトキワ荘に入居した理由は
石森(石ノ森)章太郎さん、赤塚不二夫さんと三人で
合作「U・マイア」の仕事をするためでした。
私の郷里、山口県の下関市と東京に離れていては
原稿をやり取りするのが大変だったからです。
第1作「赤い火と黒かみ」はすでに仕上げ
2作目にとりかかる予定でした。
昭和33年(1953年)のことです。
私は花(!?)の18才でした。
---三月始め、花曇りの穏やかな日に編集員の丸山昭さんと私はトキワ荘へ向かいました。
もうかなり暖かく、私はコートを着ていませんでした。
トキワ荘は豊島区の椎名町(今の南長崎三丁目)にありました。
その前には白地に黒く「トキワ荘」と書いた標識が立っており
両側にコンクリート塀のある広めの通路のすぐ奥がトキワ荘の玄関でした。
わりと大きなアパートで、玄関右に2メートルくらいのシュロの木が植えてありました。
木造のかなり古びた感じの建物でしたが当時の家はだいたいそんな物でしたから
別に何とも思いませんでした。
ただ、アパートと言う物を見たのはこれが始めてでしたので
とにかく大きな建物に見えました。
はき物の散乱している玄関に入ってすぐ正面の広いギシギシ言う階段を上ると
広めの廊下の両側にずらりと部屋が並んでいて
そこがそれぞれの人たちの住む場所でした。
確かに私には珍しかったのです。
郷里には工場務めの人たちの寮はありましたが
アパートという物はまだありませんでしたから。
この部屋のどこに誰が住んでいるんだろうと私は少し興奮ぎみでした。
左手の奥から二番目の部屋のドアが開いており、私はそこへ通されました。
石森さんの部屋でした。
あまり広くないけれど明るい部屋で
窓辺にはペンや墨汁などの画材が乗っている座机があり
両壁ぎわはびっしりと積み上げられた本の山となっていました。
書棚が一つありましたがそんな物に収まる量ではとてもなく
書棚自体が本に埋もれそうな有様でしたね。
「ちょっと待っててください。」と丸山さんが敷いてあった座布団を示して出て行ったので
私は緊張して座り、誰か来るのを一人で待ちました。
ついに本陣に来たのだなという思いでした。
部屋で一番目をひいたのは机の左正面に堂々と置かれたステレオセットでした。
ツースピーカーで真中にプレーヤーがあり
その下はレコードがびっしり入っているキャビネットでした。
その時、色白のほっそりとした男性がお茶を持って入ってきました。
「いらっしゃい、赤塚です。」と彼は言いました。
(ああ、この人が赤塚さんなんだ!)と私は固くなってあいさつを返しました。
中々ハンサムな好青年でしたよ。
「どうぞお楽に。」とか言って彼はすぐに出て行ったので私はまた一人になりました。
中々誰も来ないので私の目はまたステレオセットに行きました。
音楽好きの私はすごく気になったのです。
こんなに本格的なセットを持っている人を見たこと事はありませんでしたし、
こんなにたくさんのレコードをもっている人も知りませんでした。
石森さんが音楽好きだというのを知ったのは嬉しいことでした。
いったいどんなレコードを持っているんだろう・・・
私はチラリチラリと横目でステレオを見ていたのですが
ついにたまりかねてガラスのキャビネットドアをちょっと開けました。
とたんに石森さんが入ってきたのです!
私は飛び上がってシドロモドロで「ど、どんな曲があるのか見たかったので・・・。」
とか何とか言いました。
石森さんはニコニコしながら「どうぞどうぞ。」と言ってくれたような気がします。
すぐに赤塚さんも入ってきて少しよもやま話をしたと思いますが
この時の話は覚えていません。
私は初対面からマンガのようなドジをやったのでした。
*続きは単行本をご覧下さい。
(c)水野英子